ニッポン全国夢だらけ!日本一の夢の祭典「みんなの夢AWARD7」

2017/01/01

ファイナリストの今:第1回 吉藤オリィさん

みんなの夢AWARD4でグランプリに輝いた吉藤オリィさん。日本武道館の舞台に黒い白衣で威風堂々現れた彼の夢は、「孤独や寂しさを解消すること」。病気や事故で外に出られない時の孤独。それは彼自身が不登校となった小・中学校時代にずっと抱えていた感情でした。

誰にも必要とされない。生きている意味がない。自分は社会の重荷なんじゃないか。中学二年生の時、気づいたら池の前に立っていた。「体が死にたがっていることに気づいてハッとしました。それで、死なないための理由を必死で探したんです」と、オリィさんは当時を振り返ります。

オリィさんが到達した「死なない理由」は“折り紙”でした。折り紙を折ると周りの人が喜ぶ。作品をプレゼントすると「ありがとう」と言われる。折り紙という“ものづくり”から生きる喜びを得たオリィ少年は、2012年、起業。コミュニケーションロボットOriHime(オリヒメ)を開発しました。

OriHimeは、距離や身体的問題によって行きたいところに行けない人が、カメラ、マイク、スピーカー、インターネットを使って操作するもう一つの身体。自身の分身となって周囲を見回したり、隣の人と「あたかもそこにいるように」会話することができるのです。OriHimeは現在、ALS(筋萎縮性側索硬化症)など難病の方、身体的、精神的に学校に足を運べない子どもたち、育児や保育、怪我や病気、など様々な理由で出勤できない方たちなど、幅広い分野で多くの人々に活用されています。

各国のテレビ番組や新聞に取り上げられ、国境を越えて注目されているオリィさんに、「みんなの夢AWARD4」でのエピソードや、これからのことについてお聞きしました。

(記事:教来石)

 

――オリィさんがみんなの夢AWARD4にエントリーしたきっかけって何だったんですか?

吉藤さん(以下、吉藤)2000万円の助成金に落ちたことです(笑)。2012年に友人の結城明姫と椎葉嘉文と三人で株式会社オリィ研究所を創設したのですが、最初の一年半はまったく売上がありませんでした。一人80万円も受け取ってなかったんじゃないかな。でも結城は実家にお金があって、椎葉は貯金があって、私は貧乏生活に慣れていたのでなんとかなってはいたのですが。でも助成金に落ちて悔しがっていた時に、

 

――夢アワードのことを知ったと。

吉藤 そうです。早稲田大学時代の後輩が夢アワードのスタッフをやっていて、エントリーしないかと連絡をもらったのです。調べてみると、グランプリになったら奇遇にも2000万円の融資を受けられる。それで日本財団でやっていた夢アワードの説明会に足を運びました。最終的にエントリーの決め手になったのは、第3回優勝者の垣内俊哉さん(株式会社ミライロ代表取締役)のプレゼン動画を見たことです。

当時私はいろいろなコンテストで賞をもらって「コンテスト荒らし」と言われていたのですが(笑)、日本武道館での垣内さんのプレゼンを見て、「夢アワードというコンテストはレベルが高い!」と思いました。同時に、この舞台に立つならどんな演出のプレゼンがいいかバーッといくつもアイディアが浮かんできたんです。これは本気を出せるぞと。

 

――すごい。エントリーする前からファイナリストになる気満々だったのですね。実際にエントリーしてからはどんな感じで進んでいったのでしょう?

吉藤 一次審査は「未来の名刺」を書くことだったんですが、これを書くのに3日かけました。別に文字制限ピッタリに書くという決まりはないんですけど、何度も推敲して、200文字までなら200文字ぴったり、300字なら300文字ぴったりと、すべての質問に対してきっちり文字数を合わせて書き上げました。そういう見えないこだわりが好きなんです。また、気づいた人がいたら凄いと思ってもらえるかなと。

 

――すごい……。細部にまでこだわっている……。二次審査の集団面接はどんな感じでしたか?

吉藤 二次審査では、勝ち残れるか賭けをしようと思いました。ここで自分を取り繕ったり嘘をついて勝ってもそのうちバレるので、やりたい事をやろうと思いました。他の方たちがスーツ姿で来てる中、一人だけ和服風の文豪みたいな服装でした。自己紹介がトップバッターだったのですが、「どうもー」とはっちゃけて、折り紙を披露したりしました。僕以外の皆さんは真面目に夢まで語っていたので、僕は完全に浮いていましたね。しかもその直後、集団面接中にめちゃめちゃ体調を崩したんです。

 

――えっ!

吉藤 夢アワード事務局の平尾さんが温かいお茶を出してくださったり、駅までタクシーを呼んでもらったりしてだいぶご迷惑をかけてしまいました。まあ、これで落ちたら相性が悪かったのだろうと。逆に通過したらもう怖いものはないからファイナリストになるだろうと思っていたら、通過しました。

三次審査のプレゼンでは、選考委員であり夢アワード演出家の古谷さんに、「OriHime舞台で動かせる?本番までに二足歩行のOriHime作れる?」と聞かれたので、これは通ったなと思いました。

 

――通った。古谷さんのそのセリフは完全に通す気のセリフですね。ファイナリストになられて、共同創設者の結城さんと椎葉さんも喜んでたんじゃないですか?

吉藤 いえ。実はそれまでエントリーしたことは言っていなくて。ファイナリストになったことと、「当日までに二足歩行のOriHime作りたいんだよね」と言ったら二人からめちゃめちゃ怒られました。事業をやってくれと。「でも日本武道館で人型のOriHimeが動いたらすごくない?8千人の前で話せるし、優勝したら2000万円の融資が受けられるんだよ」と必死にプレゼンしたんですけど。

「二足歩行のOriHimeを作った場合と作らない場合の勝率はどのくらい違うか教えてくれ」と言われて。そんなのわかるわけないじゃないですか(笑)。これはもう二人に内緒で作るしかないと、それまでの貯金を切り崩しました。私のメインバンクには4千円しか残りませんでした。

 

――ひーっ。ちなみに私450円しか残らなかったことあります。

吉藤 本番まで3か月の中、椎葉と結城に隠れてインターンの学生と人型のOriHimeの開発に取り掛かりました。普段は舞台の演出を手掛けている友人のジョンソンと演出パターンを考えて。プレゼン指導を受けて。舞台の上でOriHimeが作動しないケースなども考えて、22パターンのプレゼンを作って頭に叩き込みました。

 

――天才と呼ばせてください。

吉藤 プレゼンの前に、古谷さんが作った事業を紹介するムービーが流れるんですけど、体調くずした大雪の中、インターンに肩を貸してもらいながら古谷さんに会いに行って、ここはムービーで見せちゃダメだとか、言い合ったりしました。日本武道館に下見に行かせてくださいとお願いしたのも、ファイナリスト史上私だけじゃないかなと思います。

 

――念には念をというか、気合いの入れ方が凄いですね。

吉藤 本気だったので。当日のお昼も、「勝負に勝つでカツにしよう」と言ってたら、スタッフをしてくれた後輩が「東京駅まで行ってきました!」と買ってきてくれて、みんなでカツを食べました。それくらい念には念を(笑)。

 

――皆さんでそれだけの準備をしたからこそ、本番にあの堂々としたプレゼンができたのですね。

吉藤 実は本番では、最初からOriHimeが動く予定だったんです。直前では動いていたのに、本番になったら動かなくて、内心うわあってなってました。スタッフたちも裏で慌てていたらしいです。「動くわけありませんよね。だってこれは人工知能じゃないんですから」と、すぐに動かなかったバージョンのプレゼンに切り替えましたが。そのあとに動いたので、「実はこれ、遠隔で人が動かすロボットなんですよ」とドヤ顔で。

 

――オリィさんのプレゼン動画を見ると、あれが予定外のことだったなんて全然わかりませんでした。私ならその場で固まっています。プレゼンが終わったあとはどんな気持ちでしたか?

吉藤 すべてを出しきった達成感でいっぱいでした。表彰式があることを忘れていたほどでした。

 

――優勝者として名前を呼ばれた時のお気持ちは?

吉藤 正直取れる自信はあったんですけど、優勝できなくてもやり切ったから全く悔いないなと満足していました。

高校時代に、電動車椅子を発明して科学の世界大会で賞を取ったのですが、その時は嬉しさと同時に虚しさというか、「自分のやりたいことは本当に電動車椅子なのだろうか」という気持ちがあったんです。でも夢アワードで名前を呼ばれたときは素直に嬉しかったですね。

表彰式でOriHimeを持って舞台に上がったら、OriHimeがバンザイしたんです。OriHimeを動かしているALSの患者さんが、離れた場所でバンザイしてくれたんですね。一緒に頑張ってきてくれたスタッフたちや応援してくれた方たちも、涙を流して喜んでくれていました。

 

――椎葉さんと結城さんは何かおっしゃってましたか?

吉藤 いえ、あんまり(笑)。結城は見に来てたんですけど、「おめでとう。で、明日のミーティングなんだけど」という感じでした。こっちもこっちでブレないなと(笑)。

 

――クールビューティー。素敵です。優勝された後、事業に変化はありましたか?

吉藤 いろいろありますね。うちみたいな出来たばかりの小さな会社に2000万円も融資していただけたことで、三鷹にオフィスを構えることができました。それまで別々の場所で活動していたのですが、一気に効率が上がりましたね。そして初の社員を雇うこともできたんです。夢に向かってより進める状況が整いました。

 

――すばらしいです。

吉藤 それから、これは個人的なことですが……夢アワードをきっかけに、家族の理解を得られるようになりました。両親と妹が、こっそり夢アワードを見に来ていたんです。それまでは、はたから見れば大学も行かずロボット作って、うちの息子は何をやってるんだと。妹に至っては、昔から仲が悪くて兄はいないものとして扱われていました。

でも夢アワードを見てから変わりましたね。活動を理解したというよりも、有名な人達に褒めてもらえてるとか、有名な企業の方がプラカードあげてくれてるとか、そういうところを見たから安心したんでしょうね。いずれにせよ「家族からの反対」という足枷が外れたことは、自分にとってとても大きかったです。

 

――泣きそうです。私も夢アワードで優勝して、両親がすごく喜んでくれて。弟も初めてFacebookでシェアしてくれたことを思い出しました。
オリィさんの優勝から三年近く経ちますが、今現在、オリィさんの事業はどうなっているのでしょう?順調ですか?

吉藤 ビジョンに向かって進めているという意味で順調ですね。正社員は10名、インターンとアルバイトは6名に増えました。事業だけでなく、ビジョンの本質を理解して投資してくださる方々も増え、2016年には2億3千万円の増資も行いました。

 

――OriHimeもさらに進化を?

吉藤 まだ詳しくは言えませんが、OriHimeを使う事で周りの方から「ありがとう」と言われる機会を増やしたいと思っています。たとえば簡単なところで言うと、お茶を運んでくるとか、物をもってくるとかですね。人って、何かの役割を担うことで、誰かに喜んでもらいたいと思う生き物なんです。私もそうでしたね。折り紙を折って「ありがとう」と言われたから生きようと思えた。「ありがとう」という言葉は、言うことと言われること、循環させなければダメだと思うんです。言われっぱなしでも言いっぱなしでもやがて辛くなることもあるんですよ。

 

――オリィさんの事業は、常に「孤独の解消」というビジョンに対してまっすぐな印象です。
最後になりますが、オリィさんが思う、「夢を叶えるのに必要なこと」ってなんでしょう?

吉藤 「自分の命をどう使うのか考えること」。夢というからには、一年やそこらで叶うものではありません。だから自身の人生を考えずに夢は語れない。僕は体が弱かったこともあって、生きる理由を考えざるを得ない時期があった。だからどういう生き方をすれば、死ぬ瞬間に達成感を感じられるのか自分に問いました。人との勝ち負けではなく、自分がどうあれば満足できるのか。自分は何のために生きていくのかをじっくり考えるが必要なのではないでしょうか。

 

――深い。深いです。オリィさんに出会えてよかったです。

吉藤 こちらこそ。人との縁が続くコンテストというのはいいコンテストですよね。共同創設者の結城とも10年前の科学コンテストがきっかけで出会いましたし。色んな大会にでてきましたがその中でも夢アワードはアットホームで、よい出会いがありますよ。リップサービスではなく、ね(笑)。

 

――人との縁が続くコンテストはいいコンテスト……夢アワードの最高の宣伝文句ですね。今日はありがとうございました!

 

(取材日:2016年11月17日)

 

吉藤健太朗(よしふじ・けんたろう)さん

奈良県葛城市出身。小学5年~中学3年まで不登校。高校時代に3年間ものづくりの巨匠、久保田憲司師匠に師事。行った電動車椅子の新機構の発明により、国内最大の科学コンテストJSECにて文部科学大臣賞、ならびに世界最大の科学コンテストISEFにてGrand Award 3rdを受賞、その後寄せられた多くの相談と自身の療養経験から、孤独の解消を志す。

 高専にて人工知能を研究した後、早稲田大学にて2009年から孤独解消を目的とした分身ロボットの研究開発を独自のアプローチで取り組み、自分の研究室を立ち上げ、2012年株式会社オリィ研究所を設立、代表取締役所長。
 青年版国民栄誉賞「人間力大賞」、スタンフォード大学E-bootCamp日本代表、ほか AERA「日本を突破する100人」、フォーブス誌が選ぶアジアを代表する青年30人「30 Under 30 2016 ASIA」などに選ばれる。

 

▼オリィ研究所公式ページ
http://orylab.com/

 

▼吉藤オリィさん夢アワード4のスピーチが見られる動画
https://www.youtube.com/watch?v=KrzgN1_G-iE